Masuk閉園後の植物園。灯りに照らされた温室で、朔弥さんは私の前に片膝をついていた。 箱の中には、細い指輪があった。 小さな石が連なり、中央がわずかに曲線を描いている。 片膝をついた朔弥さんが、指輪ではなく私を見上げていた。 箱を支える指に力が入っている。病室で私が「順番が違う」と言った時より、今のほうが緊張しているように見えた。 「今の指輪を、外して欲しいわけじゃない」 朔弥さんが、私の左手を取った。 今も嵌めたままの結婚指輪を、親指でなぞる。 「でも、新しい指輪は君に選んで欲しい」 その返事を、すぐには返せなかった。 一度目の結婚で、この人は私を必要だと言った。 御門のために。会社のために。彼を支えられる妻として。 嬉しかったはずなのに、いつからか、役に立てなくなれば隣にいられないと思うようになった。 朔弥さんは、指輪ではなく私を見ていた。 「会社を立て直したからではない。俺の子どもを産んでくれるからでもない」 握られた手が、温かかった。 「朝、君が隣で眠っていてほしい。帰ったら、今日あったことを聞いてほしい。喧嘩をしても、何も言わずにいなくならないでほしい」 公園を見下ろしながら話した日のことを思い出した。 子どもとキャッチボールをして、三人でお弁当を食べる。 まだ来ていない日の話なのに、もう私の大切な予定になっている。 「君と、この子と、そういう毎日を生きたい。君のいない家へは、もう帰りたくない」 朔弥さんが、私の手を持ち上げた。 「真尋。俺と、もう一度結婚してください」 薔薇も、灯りも、音楽も、すぐには見えなくなった。 目元を押さえたいのに、片方の手は彼に握られている。 「こんなの、ずるいです」 「まだ何か足りないか」 「多すぎて困っているんです」 声が笑って、途中から震えた。 この人は、私の返事を待っている。 会社も、家も、子どもも理由にせず、私が選ぶのを待っている。 「私も、あなたのいる家へ帰りたいです」 朔弥さんの目が見開かれた。 「朝、隣にいてほしい。喧嘩をしたら、ちゃんと仲直りしたいです。三人で公園へ行って、お弁当も作ります」 私は、握られた手へ力を込めた。 「もう一度、あなたの妻にしてください」 朔弥さんは、すぐには動かなかった。
その夜、新居の寝室で、女医が話を続ける前に、朔弥さんはスマートフォンを持って部屋を出た。 なぜ、私の前で話せないのだろう。 戻ってきたところを、すぐに捕まえる。 「何を相談したんですか」 「君の体調についてだ」 「それなら、どうして私の前で話せないんですか……何か隠していますね」 「隠している。だが、次の診察が終わればわかる」 「今、教えてください」 「まだ駄目だ」 結局、それ以上は教えてくれなかった。 *** それから数日後の午前、私は朔弥さんと病院の診察室にいた。 出血はなく、食事も以前と同じように取れるようになった。 診察でも、お腹の子に問題はなかった。規則正しい心音を聞き、ようやく不安が薄れた。 「先日のホテルへの外出と同じく、今夜も二時間程度ならかまいません」 女医がそう言うと、私は隣に座る朔弥さんへ顔を向けた。 「あの時も、先生に確認していたんですか」 「ええ。ご主人から、移動時間や付き添いの人数まで連絡をいただきました」 「聞いていません」 「言えば、君は気にするだろう」 「今も気にしています」 「なら、言わなくて正解だった」 朔弥さんはそう言って、女医へ向き直った。 「移動時間も含めて二時間ですか」 「朔弥さん」 「必要な確認だ」 女医は笑い、「移動時間も含めてです」と答えた。疲れたらすぐに休むようにも念を押される。 *** その午後、会見資料の確認で、久しぶりに御門本社へ出た。 夕方六時になると、会議室の扉が開いた。 入ってきた朔弥さんは、私の前にある資料を閉じる。 「今日は、ここまでだ」 「あと二ページです」 「明日でいい」 鞄まで持たれ、立たされた。 迎えの車へ乗ってからも、行き先を教えてくれない。新居とは違う方向へ曲がったところで、私は隣を見た。 「どこへ行くんですか」 「口説き直しだ」 「仕事帰りに?」 「仕事が終わるのを待っていた」 それ以上は答えなかった。 車が走るうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。 車が止まったのは、夜間は閉園している植物園だった。 見覚えのある門だった。 結婚前、まだ互いに何を話せばいいのか探っていた頃、二人で一度だけ来たことがある。 昼間の温室を出る時、私は、夜に見たらもっと綺
抱かれるのだと思った。 けれど、朔弥さんが私を運んだのは寝室ではなかった。 居間のソファへゆっくり下ろされる。腰の後ろにはクッションを入れられ、膝には毛布まで掛けられた。 「どこか痛くないか」 「ありません」 「お腹は」 「大丈夫です」 朔弥さんは私の前へ膝をつき、毛布の上から下腹へ手を添えた。 大きな掌が、確かめるようにゆっくり動く。触れ方はどこまでも優しいのに、玄関で向けられた目を思い出して、そこから熱が広がるようだった。 彼が立ち上がろうとする。 私は、とっさに彼の手を掴んだ。 「どこへ行くんですか」 「温かいものを持ってくる」 「今じゃなくてもいいです」 朔弥さんが動きを止めた。 こちらを見た瞳には、まだ熱が残っている。隠そうとしても、私を欲しがっている目だった。 「朔弥さん……」 「その声で呼ぶな」 掠れた声が返ってきた。 「どうしてですか」 「我慢できなくなる」 そう言いながら、頬へ触れる。 親指が唇をなぞった。玄関で何度も重ねられたところを確かめるような触れ方に、思わずその指へ唇を押しつける。 朔弥さんの喉が動いた。 「真尋」 「はい」 「煽っているのか」 「そんなつもりはありません」 「なら、無意識か」 そのほうが困る、と低く呟かれた。 次の口づけは、触れるだけだった。 一度離れ、また重なる。深くは入ってこない。その代わり、唇の柔らかさも、吐息の熱も、離れるたびに名残惜しそうに追ってくる気配も、はっきりわかった。 腰へ回った手が、服の上から身体の線をなぞる。 脇腹を滑り、膨らんだお腹の手前で止まった。指が布を掴む。進みたいのに、無理に引き止めているような手だった。 私の首筋へ額を押し当て、朔弥さんが息を吐く。 熱い呼吸が肌へ直接触れた。肩をすくめると、その動きさえ逃さないように腕の中へ閉じ込められる。 「抱きたい」 唇を寄せたまま、朔弥さんが言った。 押し殺した声が、触れ合った肌から身体へ入り込んでくる。 言葉にされた途端、玄関で壁へ押しつけられた感触も、唇を塞がれた熱も、すべて戻ってきた。 その一言だけで、腰を抱く手をまた意識した。 「でも、抱かない。君にも、子どもにも、何かあってからでは遅い」 顔を上げた彼の目に
テーブルの上で、白いカップが小さく鳴った。 澄麗は、頬へ手を当てたまま動かなかった。 「……どうして」 父親を見る目だけが、ゆっくりと動く。 「どうして、私を叩くのよ!」 「余計なことまで口にするからだ」 雅臣は、乱れた服を直した。 娘を叩いた手ではなく、自分を気にしていた。 「余計なことですって!?」 澄麗の声が裏返る。 「お父様が言ったことでしょう! 御門が困れば、朔弥さんは一条を頼る。真尋さんのお父様や、城戸さんの仕事も止めればいいって」 「それを、ここで話すなと言っている」 「どうして? 本当のことでしょう!!」 叱られた理由は、したことの酷さではなかった。 人前で話したことを、責められている。 「お父様が、何とかしてくださると言ったのに」 「限度がある」 「失敗したら、私一人のせいにするの?」 「私は一条と御門を守ろうとしている。お前の癇癪とは違う」 さっきまで私に家族を差し出せと迫っていた二人が、今度は互いを差し出そうとしている。 どちらも、自分が悪いとは少しも思っていないらしい。 「お父様だって、私が朔弥さんと結婚すれば都合がよかっただけでしょう!」 「口を慎みなさい」 雅臣の手が、もう一度動いた。 「それ以上、手を上げるな」 朔弥さんの声で、その手が止まる。 「責任を押しつけ合っても、君たちがしたことは消えない」 雅臣は私たちを見た。 「家族の話に、口を挟まないでもらおう」 「真尋を巻き込んだ時点で、君たちだけの話ではない」 澄麗は、父親から顔を背けた。 赤くなった頬を隠そうともせず、朔弥さんへ腕を伸ばす。 「朔弥さん……やっぱり、私を助けてくださるのは、あなただけなのね」 縋るように、もう一歩近づく。 「私も、あなたのお力になりたかっただけなの」 彼は私を背中へ庇った。 「触るな」 澄麗の手が止まった。 「俺に近づくな。真尋にも、子どもにも」 「……その人の何が、そんなにいいの」 朔弥さんが答えるより先に、私は彼の背中から出た。 「あなたにわかっていただかなくて結構です」 朔弥さんの腕を取り、自分の隣へ引く。 「この人が好きなのは、私ですから」 澄麗の顔が真っ赤になった。 両手でテーブルを叩く。白いカップの中で、お
「待ってください」 私は、朔弥さんの手を握ったまま言った。 応接室にいる全員が、私を見る。 「順番が違いませんか?」 まだ、きちんとプロポーズもされていない。 それなのに、私の返事まで決まったように、先に宣言してしまうなんて。 さっきまで勝ち気に笑っていた朔弥さんの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。 不安そうに、私を見ている。 私が断るなんて、そんなはずはないのに。 それでも、すぐにそんな顔をしてしまうところが、やっぱり可愛い。 澄麗の顔に、消えかけていた笑みが戻った。 「ほら。真尋さんは、お望みではないのよ」 そこだけは、勝ったと思ったらしい。 「そういう意味ではありません」 「でしたら、お断りになればいいでしょう?」 「どうして、あなたに言われて決めなければならないんですか」 澄麗の笑みが止まった。 プロポーズの返事は、きちんと私に聞かれてからする。 けれど、今ここで澄麗に伝えることは、もう決まっていた。 「私、別れません」 自分の声が、応接室にはっきり響いた。 「この人を、あなたに差し上げるつもりもありません」 隣で、朔弥さんの手に力が入った。 私を見たけれど、何も聞かなかった。ただ、指を深く絡め直した。 澄麗は、私たちを交互に見た。 「どうしてよ」 声が大きくなり、扉のそばにいた係員がこちらを向いた。 「もう離婚したでしょう。会社だって困っている。子どもまでできたんだから、もう十分じゃない!」 「何が、十分なんですか」 「朔弥さんも、子どもも、仕事も。全部持っているでしょう!」 澄麗は立ち上がり、テーブルを回り込んだ。 「ひとつくらい、私にくださってもいいじゃない!」 澄麗は私への言葉を切り、父親へ振り向いた。 「お父様が約束したのよ!」 雅臣の眉が寄った。 「私が子どもの頃から朔弥さんだけを好きだったこと、お父様は知っているでしょう。真尋さんを退かせれば、朔弥さんを私のところへ戻してくださるって!」 「機会は作った」 雅臣の声も、低くなる。 「一条家の人間でありながら、男一人もものにできないとは嘆かわしい」 「そんな言い方……」 「お前はやり方が下手なんだ。感情で動き、相手に気づかれ、人を使ったことまで掴まれた」 「私の気持ちを利用した
婚約? どういうこと? 朔弥さんから、そんな話は一度も聞いていない。 そう思っていると、かちゃり、と奥の扉の取っ手が下がった。 澄麗の笑みが止まった。 雅臣が顔を上げる。 扉がゆっくりと開いた。 黒い革靴が、応接室の絨毯を踏む。紺のスーツ。車の中で私が直したネクタイは、少しも乱れていなかった。 朔弥さんは澄麗を見た。 「誰が、君と婚約する」 澄麗は父親の腕から手を離し、立ち上がった。 「さ、朔弥さん。どうして、こちらに」 「真尋を一人で来させるわけがないだろう」 彼は私の隣まで来た。肩へ手を添えられた途端、張りつめていた力が抜けそうになる。それが悔しくて、私は背筋を伸ばした。 澄麗が、慌てて笑みを作った。 「ちょうどよかったわ。来週の発表について、お話ししていたところなの」 「俺は聞いていない」 「冴子様とは、前から両家で――」 「母さんと結婚するのか、君は」 澄麗の笑みが消えた。 「そんな言い方……。御門のために必要なお話でしょう?」 「俺の結婚相手を、俺以外が決める話のどこが必要なんだ」 雅臣が、娘を庇うように身を乗り出した。 「言い方を考えたまえ。澄麗は君の会社を救おうとしているんだ」 「真尋を追い出した褒美に、結婚してくれと?」 「君が意地を張らなければ、一条も協力できる」 雅臣は私を見た。 「君を選んだせいで社員が路頭に迷っても、平気なのかね」 また、私に言う。 夫を助けたければ身を引け。父の仕事を守りたければ署名しろ。 いつも、私がいなくなれば丸く収まるという話だった。 膝の上で、手を握りしめた。 朔弥さんはその手を包み、私の肩を抱き寄せた。 「真尋を見るな。俺に言え」 「君が聞かないから、彼女に話しているんだ」 「一条の名で圧力をかければ、俺が真尋を差し出すと思ったか」 雅臣の顔が赤くなった。 「娘を何だと思っている!」 「では、結婚を取引の条件にするな」 澄麗が父親へ顔を向けた。 「お父様は、私のために……」 「俺が断っても、真尋を脅して別れさせれば済む。そういう話をしていたんだろう」 朔弥さんが澄麗を見る。 「自分の手で、真尋を階段から突き落とした。真尋と俺の子を殺そうとした女を、俺が許すと思うか」 澄麗の目が見
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は







